投稿者:佐藤 昌子(星田西) 投稿日:2024/11/08

特産品の高級毛布

 私の産地(故郷)は大阪府泉大津市。まさしく地産地消の人生です。

大阪市内から和歌山市に向けて電車では南海線が難波から海側を、天王寺からはJR阪和線が山側を通っています。

私は泉大津市のはずれ阪和線の方が近い豊中町で生まれ育ちました。

 最寄り駅は和泉府中駅です。夏の体育授業と言えば水泳。勿論当時の学校にはプールはなく、中学校では助松、高校(堺市)では浜寺公園海岸でした。

どちらも白砂青松の歌にも詠まれるきれいな所です。そのような場所は米軍にとっても魅力的なのでしょう。

勿論、終戦後かなりの年月が過ぎているにもかかわらず、駅を出て国道26号線を渡り、私たち日本人用海岸への砂浜には幅2㍍くらいの往復の人がすれ違える幅に張られたネット通路を通らねばなりません。
 ネット越しに見ると、広々とした砂浜にポツポツと米軍家族の海の家がまだ残っていて、メイドさんとも見られる黒人女性が白人の子供を遊ばせている様子なども見られました。

 一方、阪和線よりも山側には信太山駐屯地があり、当時は小型飛行機やヘリコプターの発着音が聞こえることもありました。
泉大津は毛布の街。湯たんぽと火鉢の時代でしたから、寝具毛布は貴重です。本社工場の他、町中どこを歩いてもガッチャン、ガッチャン、織機を1台、2台と並べ、家庭でも毛布を織る下請け工場の音がする活気ある町でした。本家は染色工場でしたが、私の結婚祝いに高級毛布を沢山持たせてくれました。しかし、まもなく電気毛布の時代になり、これらの毛布は我が家の押し入れで眠っています。
 新春早々に能登半島地震が発生しました。被災地はどんなに寒いことだろうと思い地震の直後、この毛布を災害援助に使おうと郵便局に相談に行きました。

でも、その時は物資の輸送ルートがないため「受付けられません」と断られました。

がっかりして、支援金を渡して帰ってきました。