投稿者:戸田 十九一(妙見東) 投稿日:2025/03/12

 生まれ故郷は焼け野原
 「故郷」という言葉を調べると、「生まれた場所、以前に自分が住んでいた土地」となっています。私は大阪市都島区で生まれました。

1945年の大阪大空襲で焼け出され、母の妹を頼って疎開しました。当時1歳半でしたのでほとんど記憶にありません。

大阪大空襲後の記録

 6月から8月にかけて8回もの空襲に会い、母の(ねんねこ)におんぶされ焼夷弾の降る中を逃げ惑ったと聞いています。

 写真や映像を見て当時を想像するしかありません。疎開先は三重県上野市です。小学校1年生まで住んでいました。

 その後父の仕事の関で守口市土居町。中学1年で馬場町。大学生で寝屋川市若葉町。結婚を機に守口市東光町。次男が生まれたときには現在の妙見東と、思えば京阪沿線を転々と移動していることになります。

 上野市での記憶は、釣りの名人と言われていたおじさんについてアユ釣りに行ったことや、年上の子らの仲間に入れてんだ「べったん」「ビー玉」「コマ回し」「釘打ち」など、大きい子について回っていたように思います。守口市での思い出は、二階建ての木造校舎、上履きは藁草履、当時校舎が不足していたのでしょう2部授業であったこと、午前と午後を間違えて昼頃まで遊んでいて叱られたことを鮮明に覚えています。

 脱脂粉乳の給食で食器の底に粉が残っていたこと。一番記憶に残っているのは、6年生の耐寒マラソンの練習の時、いつもは淀川の堤防まで行って帰ってくる30分ほどのコースなのに、悪童連中が中心になってクラスの男子全員で鳥飼大橋までいき、昼前まで遊んで給食の頃に帰ってきた時、担任の先生が大泣きされていたことです。このクラスは今でも同窓会が続いています。
 私にとって、生まれ故郷は焼け野原、その後の幼いころの上野・守口あたりが故郷かもしれません。

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