投稿者:久保木 榮子(星田) 投稿日:2024/12/19

各匠の技が結集された星田の(地車)だんじり前で

 私の故郷はどこ? と考えたとき、小学校入学以来ずっと当地にいるので、故郷は“星田”ということになります。

その当時、片町線(現在の学研都市線)は片町が終点、四條畷からこちらは汽車が走っていました。

星田駅は木造の駅舎で周囲は枕木を立てて仕切られ、貨物の取り扱いもされていたので近辺でも大きな駅ということでした。駅前も広く、夏には櫓を組み盆踊りも行われるほどでした。

 また、昭和25年12月念願の電化となり、村を挙げての祝賀会が開かれました。電車が通ったのです。

日の丸の旗を振って、小学生は全員「磐船」まで電車に乗せて貰った記憶があります。
駅前の道路は、小学校正門側のメイン道路(一方通行)で、あとの枝葉に分かれた道路は迷路になっていて、今も昔の名残があります。

その中にはお寺が散在し、突き当たりには星田神社(氏神さん)そして星田妙見と続きます。

慈光寺前の川(中川)を境に駅側を〝西”、神社側を〝東”と表現しています。星田神社には2基の「地車 (だんじり) 」があります。
 東と西のものです。どちらも天保年間に新調され、左甚五郎が作ったものとも言われ、北河内でも一番の地車です。秋祭りはとても盛大に行われます。
さらに、星田地区には平安時代に、妙見山・光林寺・星の森の3ヵ所に七曜星(北斗七星)が降り注ぎ、3ヵ所の距離が八丁(約900㍍)だったところから、「八丁三所」「星の聖地」として祀られています。
 また、星田妙見の“登龍の滝”の水は、妙見河原に流れます。昔は、その河原がそのまま妙見口の方に続いていました。

今の妙見口の信号の所はトンネルになっていて、その上を河原の流れが天上川として流れていました。松下団地や藤が尾等の開発により、それは取り除かれましたが、今でも「妙見口」のことを“トンネル跡 ”と言われています。

星田中央にある星田小学校は明治5年に創設され、令和4年に150周年を迎えました。私は昭和30年に卒業、42才の厄落としの行事が代々続いており、それをきっかけに同窓会が始まり、以降途切れながらもお互いの近況報告をして楽しんでいます。

最近では桜の時期4月と秋祭りの10月に日を決めて開かれる同窓会を楽しみにしながら、人と人との繋がりの大切さをつくづく思う今日この頃です。